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もう手の施しようが無い
自然に任せ、痛みが出たら緩和ケアをしていくだけ
母親から祖父の病状についての連絡が入った。
夕食の買い出しに行く前のことだった。
祖父は昨年の夏に肺がんと診断された。
喫煙が主な原因とされる、扁平上皮がん。
元々体が弱く、同時期に腎臓も患っていた祖父は抗がん剤や手術を拒否。
私たち家族は祖父の意思を尊重し、放射線治療を選択した。
約1か月の照射が行われ、腫瘍は消えた。
それから数ヶ月、何事もなく暮らしてきた祖父の身体には新たな腫瘍ができていた。
がんは皮膚に転移していたのだ。
今日出された医師の判断は、祖父に残された体力を考慮すれば手術は勧められない、抗がん剤も腎臓に悪影響を及ぼすため不可能ということだった。
祖父に残された道は、がんと一緒に、ゆっくり死んでいくこと。
痛みから意識を遠ざけ、安らかな最期を迎えることだけ。
ずっとそばで祖父の介助をしてきた祖母はショックを受けたようだが、私はそれを聞いても冷静だった。
私は幼い頃から大半の時間を祖父母の家で過ごしてきた。
高校に入ってからはさすがにその時間は減ったが、それでも毎週のように祖父母に会っていた。
大学生になってからは、会う回数はぐんと少なくなったが、より多くの言葉を交わすようになった。
私にとって、祖父母は身近な存在だった。
だから、祖父の身体が年老いて、病に蝕まれていることがよく分かっていた。
私は自分の中で徐々に諦めをつけていった。
私がするべきことは、祖父の最期に寄り添うこと、そして、祖父を支えてきた祖母の理解者となり、祖母を労わることだと思った。
気丈であること。
それが私の役目だと認識してきた。
そう長くはないだろうと言われてきた体の弱い祖父に対し、ずっと覚悟を決めてきた。
しかし、「さあ、これからどうしようか」と考え始めた頭に浮かぶのは、元気だった頃の祖父の姿だった。
時をさかのぼればいくらでも出てくる祖父の思い出は、ここには書ききれない。
一番記憶に新しいのは、東京から帰ってきた私を笑顔で迎え、帰り際には「気をつけてな」と声をかけてくれた。
祖父の表情も、声色も、全てが鮮明に思い出すことができる。
それらはもう、見ることも聞くことも叶わなくなる。
私は、産まれてから今までの22年間を、祖父の近くで過ごせて本当に良かったと思っている。
しかし、その記憶が鮮明であればあるほど、思い出が深ければ深いほど、悲しみは計り知れない大きさとなって襲ってくる。
覚悟はできていても、涙が出る。
鮮やかな過去の記憶は、引き潮のような悲しみをもたらす。
爪が手のひらに食い込むほどの握りこぶしを作り、力み逃しをしなければいけないほどの大きな力だ。
体の芯から湧いてくる悲しみと、決めた覚悟がせめぎ合うように感情を揺さぶった。
うめくように泣いては泣きやむ。
ごく短いスパンで、私はそれを繰り返した。
多重人格者のようだと思った。
そうこうする間にも先生の帰宅時間が迫っていたため、夕食作りに取りかかった。
フルパワーで仕事する気にはなれず、一品だけ出来合いの物にさせてもらった。
今日の献立は酢豚、ポテトフライ、サラダ、具沢山中華スープ、サラダ、そしてスーパーで売っていた焼き餃子。
豚肉は酒と胡麻油と塩胡椒に付け込み、片栗粉をまぶして揚げる。
それを一口大に切った野菜と一緒に炒め、ケチャップ、醤油、砂糖、黒酢で作ったソースと煮絡めて完成。
ポテトフライはくし切りにしたじゃがいもを素揚げする。
温度管理が重要。
細やかな神経を要する料理は、少しの間私を悲しみから遠ざけてくれた。
それでもふと悲しみに脳が支配されると、味覚が鈍る。
だから余計なことは考えない。
程なくして先生が帰ってきたが、祖父のことはひとまず黙っておくことにした。
先生は上機嫌で、私が集中して作った料理を残さず平らげたが、買ってきた餃子だけは少し残した。
「やっぱり出来合いの物はこの料理の中じゃ浮くね。一人の時は気にしないで食べてたのにな」
私は無事夕食が終わったことに安堵し、先生に祖父のことを告げるタイミングを伺い始めた。